尊厳とか自立とか自分らしく生きるとか
こんにちは、haruです。テレビで、蛍鑑賞の話題が出てました。もうそんな時期なんですね。私が生まれ育った地域では、「蛍調査」なるものがあり、子供会で地元の川や用水路なんかを散策、生息調査し、それを市がまとめて「蛍マップ」を作っていました。懐かしいな。
さて、千代さんですが、また尿失禁が出てきました。もしかすると、私が知らなかっただけで、ずっと続いていたのかもしれません。
昨夜、お風呂からあがって、息子にパジャマを着せ、自分の髪にドライヤーをかけようと脱衣所へ向かっていた時、トイレから出てきた千代さんが、何やらバタバタしていました。
あー、また便失禁かなぁと思いながら部屋を覗くと、下着衣を更衣してる千代さん。
「汚れちゃった?」と聞くと、「おしっこが出ちゃってて。」とのこと。
「脱いだ下着は?」と尋ねたら、「あっちの部屋に置いてきた。」(千代さんのタンスや、その他つるしの服を置いてある部屋)と指差しました。
その部屋へ見に行くと、洗濯して干したものを取り込み、それをたたんだように、それはそれは綺麗にビシッとたたんで、積み重ねて置いてありました。そこは、いつも千代さんが、次の日の着替えをたたんで置いてある場所。汚れたものと言われなければ、確実に次の日に着るものだと思って、気にも留めなかったでしょう。
もしも、私と息子、二人がお風呂に入っている時だったら、絶対にそのまま、次の日の着替えとしてそこに置いてあったはずです。
そのままそれを着替えにすることはないでしょうが、下洗いなしで洗濯機に入れていたはず。(洗濯だけは、千代さん、自分の分は自分でします。乾燥までしてくれるドラム缶型のやつですから、スイッチオンだけですもん。それくらいやってもらわないとね。)
前にも、尿汚染した下着をそのまま洗濯機に入れられたことあったなぁ、うちには、洗濯機一台しかないですし、それは嫌だ。違うラインで洗っていても嫌だ。
だから、なるべく気が付くよう、音や動きに敏感でいるようにしています。下着の下洗いやハイター浸けをしたいし、家が便で汚れるのは嫌だもんね。
なんだけど、頻繁に便失禁があって下のお世話をしたり、尿失禁後の処理をしていると、なんていうか、「自分って、なんて価値のない人間なんだろう。」って気持ちになる。まず、「ありがとう。」とは言われませんから。
大前提として、過去に人格を否定することを、何度も激しく暴言として受けたり、嫌なことをされたりしたってことがある。更に、普段の尊大な態度があり・・・。それでも身の回りのお世話はしなきゃいけない。そりゃ、私って?ってなるよね。
尿失禁一回で、パンツ、短いズボン下、長いズボン下、スウェットのズボンの四枚が汚染されます。これを手洗いしていって、バケツのハイター液に浸けます。そうやってる間に、千代さんの部屋の電気は消え眠ってしまい、早く寝かしつけたい息子はほったらかしになっているっていうね。こんなんでいいのか?
介護保険法に「尊厳を保持し、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう・・・。」という文言があります。
・要介護度の維持や改善
・ADL、IADLの自立→QOLの向上
・選択権の尊重→自己決定
これらを保持、尊重しようと頑張ると、支える家族のそれ(尊厳やQOL)は保持しにくいし、選択権もあったもんじゃない。
だけど、家族にだって保持されるべき尊厳はあるし、自分らしく生きる権利だってあるはずです。あるはずなんだけど、そんなものはない現実。
こんな矛盾というか、どうにもならないことが、いつも頭の中でうにょうにょしています。
もちろん、介護は私のほんの一部であって、大切にしてくれる主人や可愛い子供、大切な友人、心配してくれている両親など、幸せな「他の部分」もたくさんあるわけだから、トータル幸せ寄りだって思わなくちゃいけないのかな。みんな、そうやって意識をシフトして「足るを知る」ことが出来てるんだろうか。
主人は、「そういうのは、色々勉強していくと楽になるから勉強しな。」って言うけれど、本当にそうなの?いったい何をどんだけ勉強すればいいんだろうね。